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人生で一番父親がかっこいいと思った日。





あまり触れたことがないので
ちょっと不思議な感情を持ちつつ、
今日は「父親」の話をしてみようかなと。

ビジネスに関係する記事を書けるのか?
かなり微妙な気がしますがw

早速まいります!

 

長男の僕は、父が40歳のときに初めて息をしました。

一般的に考えたら少し遅いでしょうか・・?

 

うん、多分ちょっと遅い。

 

僕や弟の友人が初めて実家に遊びにきたとき、
ヒョロッとした華奢な身体つきで
髪の毛もほとんどないツルツル頭の父に挨拶をしたあと、

「いやいや、じいちゃんじゃなくて親父さんは?」

「(笑)あれ、オヤジだから!」

というやり取りを交わすのは
我が家では鉄板のようになっています。

 

確かに、普通に考えたら祖父でもおかしくない年齢だ。

 

うちの父は当然のようにスマホも持っていないし、
こんな時代に関わらず頑なにインターネットを使いません。

加えて、病気がちなのに、
酒とタバコを止める気配は一切なく、

「酒もタバコもダメなら生きている意味はない」

というセリフは耳にタコができるほど聞いた。

 

こっちの気も知らないで!と、
学生の頃には何度も喧嘩したことがあるけど、
もう父も今年で72歳。

この年齢にもなると
「好きなようにやってください」と普通に思います。

むしろムキになって対抗していたことを
少し申し訳なく思ったりもするけど、
ムダに声を張り上げた、あれはあれで良かったのでしょう。

 

幼いころから野球をやってきた僕ですが
その背景にも父親の存在は大きくて。

というのも、小学生になってすぐの頃、
サッカー少年団に入ったら急激に態度が冷たくなりました。

 

土日のキャッチボールもしてくれないし、
それまで観に行っていた高校野球も連れていってくれない。

当時通っていた小学校のルールとして、
3年生からじゃないと野球少年団に入れなかっただけなのに…

マジでどっちが子どもかわかりません。

 

そして19時頃に仕事から帰ってきた後は、
テレビはいつも野球のナイトゲームだったもんだから、
未だにその頃のドラマの話にはついていけないときがある。

大げさに聞こえるかもしれませんが、
我が家にとってのテレビ番組は

・プロ野球
・ニュース
・辛うじてアニメ

の三本仕立てでした。

プロ野球が終わる21時頃には就寝だったわけで、
古風にも程がありますね。。

 

ちなみに
テレビなんて野球中継しか観なかった父が、
そのときの反動なのか?

今では新聞の番組表に〇をつけてまで
予約したドラマ三昧の日々を送っているのも笑える。

最近では華麗なる復讐の「モンテクリスト伯」が一番ハマったらしく、
主演のディーンフジオカを絶賛していたけど

「藤岡が~」
「藤岡の~」

と連呼するから全然話が入ってこなかった。

頼むから「ディーン」の方にしてほしい。

それに加えて「花のち晴れ」を毎週録画していたというから
彼は本当に大丈夫なのだろうか?

とても心配しております。

 

話を戻して

野球に対しても父は厳しくて、
試合後の説教が嫌で嫌でたまりませんでした。

勝っても負けても毎回必ず言われる

「人のせいにするな」

というフレーズが特に大嫌いだった。

 

「誰が人のせいにしたよ!」

「いつ俺がそんな態度とった!」

「文句しか言えないなら来るな!」

反抗期らしい反抗期はなかったと思いますが、
野球に関しては常に父と言い合っていたことを記憶しています。

 

今振り返ると、当時、
キャプテンでピッチャーで三番。

どう考えても調子に乗ってたんだと思います。

お山の大将だった僕が勘違いしないように
気を遣ってくれていたのかもしれませんが、
なんでもかんでも正論で諭してくるのが苦痛で苦痛で。

 

今パッと出てくる限りでも
嫌いだったオヤジ語録はたくさんあります。

・人と同じだけ練習していてもダメだ
・道具を大切に出来ない奴は上手くならん
・キャプテンは偉いわけじゃない
・自信がないのは練習が足りない
・1日サボったら3日遅れると思え
・練習に付き合ってくれる人には挨拶をしろ
・親にも必ず御礼を言え
・ミスするのはグローブのせいじゃない

 

いや、うるせえよと。

酔ってから言ってくるのがムカつくんだよと。

そんな風にしか思えなかったけど、
大切なことをたくさん教えてくれたことは
最近になってようやく気が付きました。

 

で、ここからが本題なのですが、

銀行の理事長だったんですね、僕の父親。

 

学生の頃はよくわからなかったけど
社会人になって凄いことだと知りました。

僕が生まれ育ったのは
そんなに大きな市ではないから

「え、〇〇の井上さんの息子さん!?」

という場面が多くなり、
それを知った途端に腰が低くなる大人もいたりして

「なんか、すげえんだな、オヤジ。」

ただ口うるさいだけの父親に対して、
感情が少し変わったのも、この頃からです。

 

週に数回、酒臭い父が帰ってくるのは
あまり気持ちの良いものではなかったけど、
考えてみたら、専務になった時期から急激にその機会が増えた。

ものすごいプレッシャーとストレスだったのは
想像に難くありません。

 

毎日のように宴会が続いたときには
なんとか家族へ埋め合わせしようと思ったのでしょう。

22時頃に、「寿司」だけがタクシーに乗って帰ってきたこともありました。

人が乗らなくても、
お金を払えばタクシーは走ってくれるらしい 笑

 

そんな状況だから、
僕が就職しようとすると周りの大人たちは言いました。

「どこの銀行にいくんだ?」
「父さんの後を追いな!」

 

野球を終えて特に目標もやりたいこともなかった僕は
「それもアリかもな~」と思った時期もあります。

でも思ったのは、それってダサくないか?と。

規定の路線に乗っかるのは楽かもしれない。
でも、それで俺は胸を張れるのか?

子どもができたときに、かっこいいオヤジでいられるのか?

 

そう考えたら答えは「NO」でした。

 

ハッキリ言って、ちっぽけなプライドです。

スキルも何もない。

親の力は借りない!とカッコつけて
アパレル販売員になったけど、
見事なまでに極貧生活を体験したりして、

「だから言ったのに」

と、みんな笑っていたのも知ってます。

 

そんな背景があるから
転売を始めたときの風当たりも強かった。

片や難関を突破して消防士になった弟と比較して

「恥さらし」
「失敗作」

のような言われ方をしたこともあります。

アイツが受かったと聞いたときは涙流して喜んだのに、
こんな形で自分に降りかかってくるのは皮肉だなとも思った。

 

だけど、僕は自分の選択を後悔したことは一度もありません。

 

泥水すすったって自分の決めた道を生きてるし、
何の刺激も感情の起伏もなく、
諦め半分で生きていく人生なんてクソくらえだ。

これだけ「人」に恵まれている今が、
僕の選択は間違っていなかったと証明してくれています。

 

周りの声や体裁を気にして一歩踏み出せない。

どこか遠慮がちで中途半端になっている。

そういう人は、たくさんいます。

 

本当はもっとやれるのに。

そう思ってしまう自分が一番わかっていたりもします。

 

誰しも嘲笑されるために生きているわけじゃないし、
周囲の声を全部無視しろといっても無理があるかもしれません。

だけど、
人目を気にするために、誰かを納得させるために、
そんなことのために生きているわけでもないじゃないですか。

 

肩書きがあれば幸せ? 違います。

地位を手に入れれば幸せ? 違います。

 

会社を辞めて独立したいと話したとき、
うちの親父はこう言いました。

 

「好きなことをやればいい。
やりたいことをやればいい。

それって誰でも見つけられるもんじゃないよ?

お前がやりたいことを見つけたことが
父さんは幸せだ。

父さんは銀行で偉くなったかもしれないけど、
それが見つけられなかった。」

 

初めてかもしれません。

父親の前で涙が溢れて止まらなかったのは。

 

なにかしようとすれば揚げ足をとられたり、
周りの人からはすぐに批判的な意見が飛んできます。

でも、だからこそ、
そこから一歩勇気を出せる人だけが勝てる。

 

本気で踏み出せばちゃんと理解してくれる仲間がいます。

絶えず引っ張ってくれる師匠とも出会います。

 

そのときに気が付きます。

すごく小さな世界で自分を閉じ込めていたことに。

 

僕はもう、銀行の理事長にはなれません。

それだけの社会的信用を得ることは一生難しいかもしれない。

 

ただ、僕は僕の生き方で「自分らしい人生」を歩いていくことができます。

 

なんの恥ずかしさも後ろめたさもなく

自信を持って、誇りを持って、このビジネスを続けていきたいと思います。





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