仕事を頑張ったら給料が上がるわけでもなく、無気力に毎日をやり過ごしていた20代の頃を振り返ると「つまらない」と感じることが多かったのですが、当時の僕はものすごく自分に失礼だったなと感じています。
というのも、当時の僕は「自分」という大切な人を軽視しまくって、出来ることを何ひとつやっていませんでした。
もしあなたも思い当たる節があるとしたら、もっと自分を大切にしてあげた方がいい。信じてあげた方がいい。
起業して圧倒的に人生が楽しくなった経験から、そんな今の率直な想いを記事にしていきたいと思います。
それ、自分の人生に失礼すぎませんか?という話。
つまらない毎日に無抵抗
人生こんなもんという諦め
毎日同じことの繰り返しで特に変わったこともなく生活していると、つまらない毎日を肯定するしかなくなってきたりします。
退屈だと嘆いていても明日は来るわけで、「人生こんなもん」と思い込んでしまった方が単純にラクだからです。
僕も毎日を「ただやり過ごす」ことを続けていたのでわかりますが、諦めにも似た感情を抱きながら布団に入る毎日の虚無感は相当なものがありますよね…。何もないのに「はあ…」と気付けばため息をしているような。
無気力なままに迎える朝は、気怠さ以外に何もありませんでした。
そんな状態を放置して良いわけがないのに、無抵抗なままサンドバックのようになっていた。
もし平均寿命まで生きられるのならばまだ50年近くもある人生を、とんでもなく雑にとらえていたように思います。
「疲れた」という最強の盾
日本語には都合の良い言葉がめちゃくちゃ多いのですが、「疲れた」はまさにその一種だと思っていて。
この言葉を発した瞬間にいろんなものをシャットアウトできるんですよね。ドラクエでいうなれば圧倒的な防御力を誇る「メタルキングの盾」といったところでしょうか。
今度あれやってみない?→疲れたからいい
趣味でもたのしもうか!→疲れたからいい
今晩のご飯なに食べる?→疲れたからいい
最終的に「食」という楽しみまで捨てられる、その破壊力ったら。
思考停止のままで刺激から身を守れるのは大きいのかもしれませんが、人生に対する「豊かさ」や「楽しさ」といった大切なものまで見事に弾いてしまうから考え物だと思います。
結局、人生を投げやりにするってダレトクなのか…?
まだ本気出してないという逃げ
やれば出来ると思っていたい
小学生のときにテストで一番を取った小さな自信なのか、あるいは生まれつき備わっている自己防衛本能か。
過去にあった成果を引っ張り出してこれたかは覚えていないですが「まだ本気出してないだけ」と考えて、決して自分がデキない人間なわけではないという事実を、当時の僕は必至で作り上げようとしていました。
たとえば勉強しようとして一瞬でやめた投資信託なんかも、本を読んでもよくわからなくてただ恐かったのだけど「本気で勉強したらどうにかなる」という異常なほどの都合の良さを発揮していましたし。
本気になって破れたときに何か大きなものを失うのが嫌で臆病になり、「挑戦」から逃げていた僕の行動はつくづく「変わらない人生」に向かっていたなと感じます。
負けが確定している出来レースに自分をそのまま参加させておくって、どれだけ自分に鞭を打てば気が済むのか。
参考:本気で生きるために考える3つのこと|楽してそれなりで本当にいいの?
本音には蓋をするのが当たり前
思うに人生にインパクトを与えるようなことって、本気を出さないと手に入らないんですよね。
甲子園優勝を目標に掲げている球児が「負けるのが恐い」からといって対戦相手にずっと小学生を選んでいたら、勝利という事実は大した価値を持たないでしょう。
これと同じように、本音では
「人生を変えたい」
「もっと楽しい生き方がしたい」
と思っていながら、とりあえず自分が傷付かないことを優先していた僕。
言ってしまえば「傷付きたくない」という気持ちはあって当然なのかもしれないけど、その臆病な姿勢ゆえに毎日の自分がダメージを受け続けていたことに気付いたのはもう少しあとでした。
失敗しない選択をしているはずが、肉体的にも精神的にも毎日しっかりと削られているというアレはなんだったんだろう…。
参考:仕事がつまらないまま30歳になることだけは絶対に嫌だった「あの頃」
自分の可能性を広げない
自己投資しない
人生を楽しいものにしていく上で間違いなく大切になるのは自分のスキルなわけですが、その最重要人物に対してしっかりと投資をしないというのはいかがなものか…?
新しい知識や経験を自分に与えてあげないのは、自らの手で可能性を潰してしまっているに等しいんですよね。
新卒で就職した頃に会社の専務から「とにかく本を読め」と言われたときにはイマイチ意味が理解できていなかったけど、個人でビジネスを持つようになってから身に染みて実感するようになりました。
学ばない限り、結果を出し続けることは不可能だと。
かつての僕のように目先の口座残高ばかりを気にして自己投資にお金を使えない人は多いものの、今の自分では貯められる金額も知れているわけで「もっと稼げる自分」になるための投資を行わないのは自らの首を絞めていることになります。
不満と不安にまみれた現状と対峙しているのに、それを変えるためのアクションをとってあげなかったのは自分に対してものすごく失礼なことをしました。
参考:20代の貯金は無意味|将来的に安定を手に入れる賢い使い方を知ろう
可能性を否定して行動しない
加えて、自己投資を渋った思考の根底には「自分の可能性」を信じていなかったことも原因として挙げられます。
それこそ「起業して自由に!」なんて話を聞いても自分事として考えることは一切しなかったですし、何なら「人生を変える」みたいなフレーズ自体が嫌いでした。「いや、変わんないでしょ」と。
まあ耳障りの良い言葉をすべて鵜呑みにしても意味がないし、今「好きなことをビジネスに」という言葉の上っ面を拾っている人たちに対してはこんな風にも感じているわけですけど…
好きなことを仕事に出来るのが今、みたいな言葉をよく聞くけどこれはリアルだと思います。出来る出来る。
ただ、そのためにはめっちゃ時間がかかったりめっちゃ勉強が必要だったり成功の裏にめっちゃ継続があったりするのもリアル。
都合よく前者だけ受け取ったら笑えるほど時間の浪費で終わります。
— 井上直哉 (@naoya1noue) 2019年2月13日
ともあれ自分の可能性を信じてあげることはめちゃくちゃ大事で、特にWebの力を借りてビジネスができるようになったことで「起業」だってひと昔前とは比べ物にならないくらいハードルが低いものになりました。
現に僕もそれによって「人生が変わった」ひとりになっているわけで、自身の可能性を勝手に潰すのは本当に失礼な話だなと思います。
参考:自己投資が起業に必要な理由|稼げないまま失敗に終わる人の共通点とは
最後に:もっと自分を大事に
一時期は「自己中」という言葉がすごく悪いものとして世の中に浸透していたものの今ってむしろ逆で、ちゃんと自分を大切にしてあげる考え方は尊いものとされています。
先日読んだ書籍でも「自分を大切に出来ない人は周りを大切に出来ない」という一節があり、これは本当にそうだよなと感じたんですね。
実際のところ、目まぐるしい毎日の中で忙殺されて「自分の未来」なんて考える余裕がなかったり、いちいち落ち込みたくもないから見て見ぬフリをするという対処をしてしまうのが致し方ない部分もあるのはわかります。
ただ、一度きりの人生において「自分」を大事にしないのは失礼すぎるんじゃないか。
今動き出すことを選んで人生が楽しくなった一人の人間として、僕のメッセージからなにか届くものがあれば幸いです。
月収15万円⇒月収500万円
僕は現在、物販ビジネスで起業したのち法人も設立して「仕事が楽しくて仕方がない…!」という数年前では考えられなかったような毎日を送っています。
会社に雇われなくなり、月収500万円という世界も経験しました。
この生き方を掴めたのは「最速で稼げる物販ノウハウにより副業収入で本業を余裕で超せた」からです。
「人生を変える」なんて1ミリも信じたことがなかったけど、30歳を目の前にしてスキルも人脈もゼロの状態からの起業は実際に可能でした。
よかったらぜひ、プロフィールをご覧になってみてくださいね!
こちらです。